手ぶら登園保育コラム

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“想定外”を楽しむ保育者に。「◯◯主義」から抜けだす子どもへのまなざし(佐伯胖×井桁容子)

“想定外”を楽しむ保育者に。「◯◯主義」から抜けだす子どもへのまなざし(佐伯胖×井桁容子)

私たち大人がたくさんの“想定外”を経験しているコロナ禍。保育や教育のあり方が改めて見直され始めています。

その中で、今も根強く残る考え方を『教え主義』『頑張り主義』『想定主義』『計画主義』『言語主義』……といった言葉で表し、「子ども」へのまなざしを見直そうと提案するのが認知心理学者の佐伯胖(ゆたか)先生です。

今回『秋の保育アカデミー』の講演にて、佐伯先生と乳幼児教育研究家の井桁容子先生のお2人に、これからの保育者のあり方や、子どもから学べることなどを語り合っていただきました。

対談は、井桁先生の「なぜ大人は子どもを型通りに育てようとしてしまうのだろう?」という問題提起からスタートします。

(この記事は、2020年11月に開催された『秋の保育アカデミー』(主催:大友剛/協力:Hoick)のオンライン講義の内容を、メディアパートナーとしてベビージョブ編集部が再構成したものです)

井桁先生の提起「なぜ型通りを教えてしまうのか?」

井桁私は2018年の春まで、4年制大学・短期大学で授業を行なっていました。そこである年、「学生がどんな気持ちで保育者になろうと思っているかな?」と興味が湧いて、1年生を対象にアンケートを取ったことがあったんです。

まっさらな新入生が保育者にどんなイメージを持っているか。聞いてわかったのが、「子どもに正しいことを教える」あるいは「子どもの悪いところを直す」ような仕事だと考えている人が、結構な割合でいるということだったんですね。

『秋の保育アカデミー』講師の井桁容子先生『秋の保育アカデミー』講師の井桁容子先生

井桁これはちょっとマズいな……と思ったんですけど、そのあと私が「保育とはどういう仕事なのか」「子どもはどんな存在なのか」を解説すると、わずか80分たらずの最初の講義で学生の反応ががらりと変わりました。

「面倒を見たり教えたりする仕事だと思っていたけれど、“学ぶ”がキーワードだった」「その子の行動にどんな意味があるのか、どんな気持ちなのかまで深く考えられるようになりたい」なんて声がたくさん出てきて。鉄は熱いうちに打てと言いますが、こういう姿をみると、やはり最初がすごく重要なんだと感じます。

ところが、次に実習に行くと、今度は授業で学んできたこととは違う「悲しい経験」をする学生が本当に多くいるんですね。

特に「食事」の場面では、つらい思い出や葛藤を持つ学生が多いといいます特に「食事」の場面では、つらい思い出や葛藤を持つ学生が多いといいます

井桁子ども同士のトラブルについても、「喧嘩しちゃだめじゃない」「『貸して』と言われたら『いいよ』って言うのよ」「『ごめんね』って言われたから『いいよ』って言うんでしょ」なんて声の掛け方をさせていたり。

でも、実際は大人だってあちこちで喧嘩していますよね。世の中、型通りに言ったら型通りの答えが返ってくるなんてこともない。なのに子どもにだけ平板化した言葉のやりとりをさせて、それで本当に社会性が育つのだろうかと思うんです。

私はむしろ、子どもの喧嘩は「宝物」だと考えています。喧嘩を通じて、人のことを知ったり自分自身の気持ちを知ったり、すごい経験をしている。例えばお友達のおもちゃを横から取ってしまったとしても、ある瞬間に「奪った自分は格好悪い」と思ったり、自分の意思で相手のところに返しに行ったりもできるんです。

(編注:対談では、井桁先生が出会った子どもの喧嘩のシーンや、そこで自ら「朝までかかっても先生はちゃんと付き合うからね」と言葉をかけたエピソードなどが細かく紹介されています)

そうした姿は子どもをじっくり見ていれば気づけるんですけど、特に保育者も親御さんも子どもを「いい子」に育てようとも思うあまり、どこかで間違えてしまっている気がします。今日は佐伯先生に、このあたりのご意見をぜひ伺えたらと思いました。

「導く」対象ではなく、生まれながらに「すごい」存在

佐伯最初に、話を聞いていて1つ気づいたことがあります。井桁さんは子ども同士のトラブルに、はっきり“喧嘩”という言葉を使われました。これって実は保育者や研究者が言わないことも多いんです。よく使うのは“葛藤”とかですよね。

でも、“葛藤”という言葉にすることで、僕はそこにいる人の気持ちを無視してしまう可能性があるなと思いました。「何かしら解決すべきマズいこと」として扱ってしまうことで、実際には“喧嘩”をしている人同士の、相手を許せない感情や、何としても自分はこうしたいんだという気持ちを受け止めなくなってしまう。

そこを井桁さんは、子ども自身の思いとしてしっかり受け止めて見ている。そして、子どもたちの中に自分がきちんと入り込もうとするまなざしを感じました。

『秋の保育アカデミー』講師の佐伯胖先生『秋の保育アカデミー』講師の佐伯胖先生

佐伯もう1つ井桁さんから伝わってきたのは、子どもと関わる覚悟ですよね。

「気が済むまで喧嘩に付き合う」姿勢を見せることで、井桁さんがそこにいる子どもたちを対等な「人間」として、泣いたり苦しんだりし合っていい存在として、きちんと認めているというメッセージが伝わります。

ところが、そうやって自分が自分であると主張し合うことを、私たちは横から止めさせてきてしまったところがある。これは、保育者が考え直さないといけないポイントだと思います。

井桁言われて初めて、私自身も“喧嘩”という言葉を使う場合とそうでない場合があるなって自覚しました。

一方的な状況や力関係の中で起きたことは、私も“トラブル”といった表現をすることがあります。でも、人同士が対等なら、やっぱり“喧嘩”ですよね。

私は人生の中で、前後の状況や安全を踏まえたうえで思いっきり喧嘩する時期があってもいいと考えてるんです。それを「ごめんなさい」とか簡単な言葉で終えてしまうなんて、すごくもったいないなって。

「導く」対象ではなく、生まれながらに「すごい」存在

佐伯実は倉橋惣三(1882〜1955、教育者)もね、そのことをはっきり言ってるんです。喧嘩とは子ども自身にとってとても大事なことであり、仲裁するものじゃないんだと。

子ども自身の中で解決する方法を見つけていくことが大切だと示しているんですよね。

相手を対等に真実に考えれば喧嘩も出る。相互を味わうことの出来ぬ子は保育法の効果を充分にあげ得られぬ。

『倉橋惣三「保育法」講義録』(フレーベル館)より引用

佐伯じゃあどうして、今の保育でそれができないのか。

1つは「未熟だった子どもが、人としていろんなことをきちんとできるようになる」のが発達であり、それを支援するものが保育や教育であるという考え方が、大前提のようになってしまったことがあります。

もう1つは、自分もこれまで一生懸命に学校で勉強してきたばかりに、「教師に導いてもらったから今がある」という思考が根強くあること。なので、つい「子どもをより良くしていかないと……」と考えてしまうんですね。

でも、僕は子どもって最初からちゃんと「人間」なんだと思うんです。先ほどの喧嘩のエピソードもそうですが、一人ひとりが本来すばらしい感性を持っている。

そのことを大人になればなるほど忘れ、子どもの中の「人間」がだんだん見えなくなっているだけなんですね。なので、そもそも「人間って生まれながらにすごい存在なんだ」と信じるような保育観が、もっと広がらないといけないなと考えています。

ことが起きたときの振る舞いが、子どもに影響を与える

井桁そういう子どもたちに対して型通りのことをさせてしまうのって、私は「勘違い」が原因だと考えるようにしてるんですよ。「勘違い」なら、学んで気づけば直せます。

学生の授業でも、写真や動画から子どもの姿について意見を出してもらったあと、「違う見方もあるのよね」と示しながら一緒に考えていくと、「見足りてませんでした」と自分で気づくんです。

ただ、現場に長い間関わってきて感じるのは、実践者の保育が一番変わるときって結局、その人自身の心が動いた瞬間なんですね。なので、素直に「勘違いだった」と感じられるようなシチュエーションを、若い先生方にどうつくってあげるかが重要だと思っています。

ことが起きたときの振る舞いが、子どもに影響を与える

佐伯目の前で子どものすごさを感じるのが、一番説得力がありますからね。

一方で注意しないといけないのは、「教え込めばできるようになる」という事例を見て、その強い宣伝力に影響される場合もあることです。全員が一斉にきれいに動いているし、そのために子ども自身もちゃんと頑張っている。

そうした『教え主義』『頑張り主義』的なものをすごいと思ってしまうと、一人ひとりの子どもを見ることよりも、みんなをきちんと導けることが保育者の力量だとケロッと変わってしまうんですよ。

井桁まさにそうです。さっきの喧嘩の話と一緒で、問題を起こさせない人が有能だと勘違いしてしまうんですよね。

なので、私は「事を起こさないのではなく、事が起きたときにどうするかが重要なんだ」と繰り返し話しています。

ことが起きたときの振る舞いが、子どもに影響を与える

井桁同時に伝えているのは、何かが起きたとき、単純に子どもを「見守る」だけではいけない点です。

傍観者でいて好きなようにやらせるのと、子どもを見ることの違いはきちんと確認しておく必要がありますよね。

佐伯日本の保育者は「見守る」という言葉を大事にしますが、自分は全くタッチせず外側からの「観察」になっているケースも多いんです。

そうではなく、子どもの自主性を尊重しながらも、横にいる保育者は気持ちの上でちゃんと中に入らないといけない。子どもたちの思いに巻き込まれてしまうことがすごく大事なんですね。

その意味で井桁さんの「朝まで喧嘩に付き合う」話には、その姿勢がきちんと表れているなと僕は感じました。

ことが起きたときの振る舞いが、子どもに影響を与える

井桁傍観者であることの罪深さって、当事者だけじゃなく、周りの子どもたちにとっても大きいと思うんですね。

なぜなら、「お友達が必死なときに、先生は感情を動かさずに傍観してた」ってことが伝わるから。そういう姿を見ると、問題を起こしてる人のことは黙って見てればいいんだと考えてしまいます。

仲裁も同様で、喧嘩を止めようとする大人を見てきた子どもたちは、自分も「『ごめんね』って言うんだよ」なんて口にする。でも、そこで「困ったね」「何ができるかな」と子どもの傍に寄り添う保育者がいれば、子どもたち自身も「自分ができることは、まずはその人の気持ちになることだ」って自然に気づいていくんです。

“想定外”を楽しめる大人であってほしい

佐伯朝まで子どもに付き合おうとする井桁さんの背後には、「解らなさをずっと抱えていよう」という覚悟も見える気がします。

どうなるか見えない状態って怖いので、普通は答えがほしくなる。「こういうときはこうしたらいいんだ」という結論めいたものを、外から引っ張ってきたくなると思うんですが。

“想定外”を楽しめる大人であってほしい

井桁それは、佐伯先生が以前に別の講演でおっしゃっていた、“半壊の知”って言葉から頂いた考え方なんですよ。「曖昧なものを曖昧なまま抱え込む力が、実は知性なんだ」って。

私も20〜30代の頃は「どこかに正解があるはずだ」と考えていて、正しいところに行きつきたいとずっとあがいてたんです。だけど、一度は正しいと思ったものも、いずれひっくり返ってしまう。

「そういうことだったのね」って後から気づく失敗を山ほどして、何かを正しいと思った自分を恥じた経験が何度もあるんです。だから、先生の言葉を聞いてストンと落ちたんですね。

佐伯想定がひっくり返ることって、世の中たくさんありますからね。でもみんなそれが怖いから、つい「解らない状態なんてあってはいけない」と考えてしまう。

保育でもこうした『想定主義』あるいは『計画主義』がすっかり幅を効かせてしまって、想定外が起こらないよう計画を立てて、子どもの行動を綿密に予測して、その対処まできちんと整えておきますよね。

でも、そうやっていくと、実は状況が根底からひっくり返っているにも関わらず、ひっくり返っていることとして全然見えなくなる。僕はこの方がずっと怖いと思うんです。

“想定外”を楽しめる大人であってほしい

井桁それってまさに、コロナ禍が証明したことだと思うんです。想定外が苦手な大人がこんなにいっぱいいて、誰かに指示してほしいと考える大人もすごく多くて。

でも、子どもと暮らしていると想定外のことばかりだし、自分が道を歩いてたって予想しないことがいっぱい起こる。それを感じるアンテナを無くしてしまっているのかもしれませんね。

園でも「流れる保育」なんて言葉が使われることがありますが、流れてどうするんだって私は思うんです。流しちゃダメでしょう。

佐伯「今日はすべてが見事に計画通りになりました」となるのが良い教育者だとされ、それを予測したりうまく対処したりできないと未熟だとされてしまう。

この概念を変えないといけませんね。

井桁私はあるときから、保育で失敗してすごく落ち込む自分を、もうひとりの自分が「ククッ」と笑えるようになったんです。想定してたものが狭かったんだよって思い知らされて、ひっくり返ったことをちょっと喜べるようになった。

大事なのは、例え涙を流しても、涙で失敗まで一緒に流さないことですよね。

どれだけ失敗を避けようとしても、こういう仕事をしていると日々「そうきたか!」という経験をたくさんします。そのとき、「まさか失敗しないだろう」と考えていた自分も含めて笑い飛ばしてしまって、また次に生かしていくのがいいのかなと思っています。

「言葉にならない豊かさ」を保育者が支える

井桁今日お話していて改めて思ったのが、私たちの人間として「五感で感じる力」が弱くなってきているのかなということです。

保育の中でも、子どもたちが全身で感じたり、その感情を蓄えたりする時間を奪ってきてはいないかなと。大人が「言語」にまみれた社会で生きているので、早く言葉にできればできるほど成長したように考えてしまいますが、本当はその手前にいろんなことを感じ、溜め込む体験が必要だと思うんです。

「言葉にならない豊かさ」を保育者が支える

佐伯おっしゃるように「ちゃんと言葉で言えなければダメなんだ」という『言語主義』的な発想が、私たちを縛りつけているように感じます。

でも、言葉で言えなかったり、言葉にならなかったりすることの豊かさって確実にある。その世界にどう脱するかは考えないといけませんね。

井桁子どもたちの傍にいる保育者が、意識を持って五感による体験をつくっていく。そう考えると、やはり保育の分野が踏ん張っていくことが重要な時代なんだなと思います。

佐伯取り巻く環境自体もどんどん人工化、それに仮想現実化されるなかで、本当の世界をきちんと経験させてあげることも大切ですね。

僕はゲームってあんまりやらないけども、子どもはすごく夢中になるみたいです。それだけ引きつけちゃうものを単に「ダメですよ」って禁止すればいいかというと、そうでもない。本物の自然体験など、いかに全身で豊かさを感じさせてあげるかが問われていますね。

「言葉にならない豊かさ」を保育者が支える

井桁自分の感情をちゃんと出して、相手の思いになれる人がたくさん育てば、そんなに大きく間違えた選択をせずに「人間らしさ」は残るんじゃないかと思っています。

そのためには、大事な芽が出たばかりの乳幼児期にどういう保育をしていくのかを、もう一度確認できるといいですよね。

子どもって、待って見ていると本当に思いがけない反応をしてくれるし、自らすごい答えを出してくれる。ただ、その姿に気づくには「早く答えがほしい」という感覚を捨てないといけません。

私は「子どもたちがそこら中に答えを転がしてくれている」って思ったときから、少し肩の力を抜いて保育できるようになりました。何がいいかは今すぐは解らないけど、その解らなさも含めて全部をおもしろがった方が、きっと得るものが多いだろうなって考えています。

「言葉にならない豊かさ」を保育者が支える

佐伯井桁さんが「子どもがおもしろい」と感じること、特に子どもの中の「人間」そのものへ強い関心があることが、保育者として非常に大事なことなのかなと思います。

保育って、結局は人間学なんですよ。人間という存在のすごさを日々学ぶ場が、保育になるんです。

そこで重要なのは、子どもを望ましい姿に導こうというのではなく、人間として持つすばらしさを「共に見つけていく」こと。子どもたちの姿に驚いたり、感動したり、発見する大人のまなざしを感じるだけで、子どもは本当に良く育っていくものなんですよね。

講師:佐伯 胖(さえき ゆたか)
認知心理学者。田園調布学園大学大学院教授、東京大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。慶應義塾大学工学部卒業後、ワシントン大学大学院を修了。認知科学の立場から子どもの学びを研究。著書に「「学び」の構造 」「幼児教育へのいざない」など、共著に「子どもを「人間としてみる」ということ」など多数。
講師:井桁 容子(いげた ようこ)
乳幼児教育研究家。非営利団体コドモノミカタ代表理事。2018年3月まで42年間、東京家政大学ナースリールームにおいて0〜3歳児の保育の実践と研究に従事。現在は講演などを通じて、日本の子どもがおかれる環境の質の底上げに尽力中。NHK教育「すくすく子育て」に出演。著書に「0・1・2歳児のココロを読みとく保育のまなざし」など多数。
企画・主催:大友 剛(おおとも たけし)
ミュージシャン&マジシャン&翻訳家。「音楽とマジックと絵本」で活動。NHK教育「すくすく子育て」に出演。東北被災地に音楽とマジックを届ける『Music&Magicキャラバン』設立。著書に「ねこのピート」「えがないえほん」「カラーモンスター 」など多数。YouTubeで発信中。

(構成・執筆/佐々木将史

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