手ぶら登園保育コラム

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子どもが“世界をわかる”力から、大人はなにを学ぶか——井桁容子×佐伯胖 #保育アカデミー

子どもが“世界をわかる”力から、大人はなにを学ぶか——井桁容子×佐伯胖 #保育アカデミー

子どもを大人都合の「望ましい姿に導く」のではなく、人として持つすごさ、おもしろさを「共に見つけていく」。

認知心理学者の佐伯胖先生、乳幼児教育研究家の井桁容子先生は、前回の対談でそんな大人のまなざしを教えてくれました。

<秋の保育アカデミーの記事:“想定外”を楽しむ保育者に。「◯◯主義」から抜けだす子どもへのまなざし(佐伯胖×井桁容子)

2021年2月に開催された『冬の保育アカデミー』では、その続編とも言えるセッションが実現。今回のテーマは「子どもが“わかる”ということ」です。

冒頭、井桁先生の「そもそも、大人はどんなときに“わかる”という言葉を使うのだろう?」という投げかけから、2人の新たな対談が始まります。

(この記事は、『冬の保育アカデミー』(主催:大友剛)のオンライン講義の内容を、メディアパートナーとしてベビージョブ編集部が再構成したものです)

子どもへの「わかった?」は、何を聞いているか

井桁今日も佐伯先生といろいろな話を深めていけたらと思っています。まずは最初、私がよく感じる疑問をいくつか提示させてください。

1つは、大人が使う“わかった”の言葉の意味です。保育のなかでも、保育者が「わかった人?」って声をかけたりするんですけど、あのときの“わかった”って一体何を指すのかなと思うことがあります。

子どもが「うん」と頷いたとして、大人は何をわかったことにしたのか。実はそこに、子どもの思いと大きなズレがあるんじゃないか。そんなふうによく感じるんですね。

『冬の保育アカデミー』講師の井桁容子先生『冬の保育アカデミー』講師の井桁容子先生

井桁もう1つは、そもそも子どもにとっての“わかる”とは何か。「子どもがわかっているもの」を、大人は実際どれくらい理解しているのだろうかということです。

保育をしているとき、子どもの姿から「ああ、こんなことをわかってたんだ」って実感することはすごくたくさんあるんです。そのズレにどれだけ気づけて、子どもの“わかる”を理解してあげられるかということに、私は保育の専門性があると思うんですね。

例えば10カ月の赤ちゃんがハイハイをしていて、床に落ちる影と、外の木の葉っぱの揺れる動きが連動していることに気づき、「これとこれには関係があるぞ」って“わかる”ことがあります。

でも、その世界に気づかない大人は簡単にヒョイっと持ち上げて、赤ちゃんが泣いたら「あらあら、大丈夫よ」なんて言ってしまう。大人と子どもでは見えているものがまるで違うんですね。大人が余計なことをしなければ、子どもは世界のいろんな特性に自分で気づいていく力があるんだと思います。

佐伯先生は、著書『「わかり方」の探求』(小学館)のなかで、そうしたズレた関わり方を大人がしないために、「判断を控える」必要性を書かれていました。こういった言葉があることで救われる子どもたちが、実はたくさんいるんじゃないかと私は思うんです。

佐伯胖「わかり方」の探求』(当日の資料より)

井桁子どもは、思いを持って自分を見ていてくれる大人が誰なのかちゃんと“わかる”。そのうえで、時には本気で向き合ってくれる人を信頼する力も、きちんと備わっているんです。

そして、大人の行為を受け止めるときも上っ面ではなく、内面までしっかりと理解しています。例えば、ある2歳児の子どもが園でお友達と相撲をとっているとき、毎回楽しそうに「見事な負け」をし続けていたそうです。それはただ相撲が好きなんじゃなく、家でお父さんがわざと負けてくれていたことをわかって、同じことを相手にしてあげていたんですね。

保育や教育って、そうした目には見えない「子どもの“わかる”」に気づける、すばらしい仕事だと思うんです。ところが今の乳幼児保育では、「大人の“わかる”」を少しでも早く理解させようとする力が大きくなっていて、私はすごく気になっています。

物ごとを“関係づけていく”子どもの力

佐伯まず最初の、大人にとっての“わかる”の解釈については、「わかってもらいたいと大人が思い描くこと」が先にある場合が多いと思います。こちらの期待する内容が子どもに通じたかどうか知るために、「わかった?」と聞いているんです。

でも、これは決して子どもを理解したことにはなりません。“わかる”のではなく、ただの“押し付け”ですよね。

そうではなく、まずは「子どもは何を考え、感じているんだろう」といったことに目を向け、「どう世の中のことをわかろうとしてるんだろうか」と思いを馳せる。そのなかで、「もしかしてこうかな……」と何となくでも見えてきたときに、子どものことが「少し“わかった”ような気がする」という言葉が出てくるのだと思います。

『冬の保育アカデミー』講師の佐伯胖先生『冬の保育アカデミー』講師の佐伯胖先生

佐伯ここで必要なのは、子どもの行動を「何とかわかりたいな」と思う姿勢です。相撲の例でも、負けてる姿を見ておやっと感じたときに、単純な解釈で理解してしまうのではなく「子どもが何を再現しようとしているのか」と思いを巡らせる。

こちらが考えもしなかったことを、子どもはわかっているかもしれません。その前提に立って「わからなさ」に身を置ける大人の存在は、非常に大事だと思います。

一方で、子ども自身が何かを“わかる”とは、どういうことか。影の話でもあったように、離れたもの同士の動きが「関係づいている」ことを、子どもは自ら発見していきます。これって実はものすごい力なんですね。

そもそも子どもの、特に0・1歳児の世界の見方は、私たちとは全く違います。大人は写真を眺めるように平板にものをなぞって見ていきますが、子どもはそこに自分を重ねて、時間をかけながら「世界を自らのなかで」感じ取ろうとする。

葉っぱの揺らぎのような、世界のうごめきを自分自身の変動として捉えようとする、とても尊いまなざしを持っているんです。

我々の想像を超えて分かっている或いは分かろうとしている

佐伯子どもの“わかる”ものには、物ごとの背後にある「人間」への深い理解も含まれます。関わる大人の姿から、人のありがたさやうれしさなどを全身で感じて、「人間ってこういうことなんだな」とわかろうとするんです。

子どもがそうやって世界を本質的に捉えていることを、まずはみなさんに知っていただきたいですし、畏敬の念を持って子どもの見ている世界を見てあげてほしい。

そして、そのまなざしにどこまで近寄れるか、思いを共にできるかということを試されてるのが、実は保育者なんだと私は思います。

「こう見えているんだ」と、子どもと一緒に楽しむ

井桁ありがとうございます、もう頷くばかりで。子どもって本当に、大人が自分を尊重してくれたってことをちゃんとわかって、その時の表情や言葉のニュアンスまで含めて思いを巡らせて、相手とのつながりをつくっていきますよね。

そうやってわかろうとする作業を、誰にも教わらないのに自分でやっていく。人間ってすごいなと思うんですが、どうしてあんなに幼いうちから、ものごとを「関係づける」ことができるんでしょうか。

知りたくなってそのことを自分で分かろうとする作業を

佐伯私たちは本来、「世界をわかろうとする」ための、ものすごい理解力を持って生れてきているんですよ。それが大人になるにつれて鈍くなり、世界に思いを馳せることができなくなっていくんですね。

なので、実は大人が赤ちゃんから学ぶことは本当にたくさんある。「赤ちゃんは何もわかっていない」「こちらが教えるから、いろんなことができていく」というのは勘違いなんです。

井桁やっぱり生まれて間もないほうが、人間になろうとする、人をわかろうとするエネルギーが大きいんでしょうね。細胞もみずみずしくて、周りとのつながりをつくりやすいようにできているというか。

佐伯そうなんです。その「関係づける」という作業はすごく独創的でもあるんですが、本人にとっては関係づくこと自体がまずうれしい。その喜びを、私たちも味わってあげるべきだと思います。

「ああ、こういうふうに見えてるんだ」ってことを中に入って一緒に楽しむと、世界がいろんなものの関係性で成り立っていることが見えてきます。

世界がいろんなものの関係として見えてくる

井桁おもしろいなって思えると、“わかる”こと自体にも深さのようなものが生まれて、それが子どもの社会を見る力を高めていきますよね。「気づくってすごいんだ」っていうことを、3歳ぐらいまでは徹底的に保証されることがすごく大事だと思います。

ただ、子どもはそういった世界に没頭していても、大人が目先のものに追われてしまって、「早く歩きなさい」とか「もう◯◯の時間ですよ」ってバサっと切ったりすることが多いと思うんです。あるいは、年長さんでできるようなことを0歳から練習させる、なんてこともあったり。

保護者も「早くできる」ってことにどうしても目が行きやすくて、子どもの静かな世界がなかなか尊重されていないように感じています。

“思わず”を軸に、世界の見方を変える

佐伯保育のなかで「早くできる」が求められる背景には、「できることが増えていくのが発達だ」という考え方が幅をきかせてしまっていることが大きいですね。でも、これも勘違いの発達論だと私は思うんです。

本来の発達は、子ども自身が「物ごとを深く、よりよく見えるようになっていく」こと。それを急がせ、できることリストを一つでも多く……とやってしまうことで、子どもが自分で“わかっていく”世界がどんどん失われているわけです。

分かっていく世界というものが無くなって行ってるわけ

井桁“わかる”を急がせてしまう原因の1つに、私は子どもを早くから「みんなのなかに埋没させている」ことがあると思っています。

0・1歳児に向かって「みなさん」と呼びかけ、飛び出した自我みたいなものを出ないようにさせる。早くいろんなことをわからせたほうが「社会でうまくやれる人間」になれる。そんな思考で多くの保育がスタートしていることが、とても気がかりです。

佐伯先生も『「わかり方」の探求』のなかで、子どもを“One of Them”、みんなのなかの一人として見ることの問題を指摘されていましたよね。本来は先生のおっしゃるように、もっと一人ひとりに思いを巡らせる時間が必要だと思うんです。

乳児保育を「集団保育である」と、保育者が捉えることの気がかり

井桁ただ、こういうことを言うと「思いを巡らせる時間なんかありません」「忙しくてそれどころじゃありません」って声がすごく聞こえてくるんですね。確かに忙しい仕事ですけど、実際は子どもを“One of Them”として見ているほうが、保育はもっと大変になると思うんですが……。

佐伯なぜ保育者が忙しくなるのか。これは「してあげること」を一生懸命考えるから、忙しくなっちゃうんですね。あれを教えなきゃ、これをするべき……そんなことで頭がいっぱいになると、忙しく感じて当たり前なんです。

なので、その思考を一回外してみることが必要。「子どもっておもしろいな」っていうことに、自信を持って身を投げてみることです。

子どものことに魅入られ、すごさに感動すると、“思わず”何かをしてしまいます。この“思わず”がいっぱい出るようになると、結果的にいい保育になるんですよ。なぜなら、子どものおもしろさに引き込まれたときの行動は本物だからです。

もちろん何かを“思わず”やることで失敗もあるでしょうが、それもいいと思います。腹をくくって素直に楽しむことが、「せねばならぬ」から抜け出すためには大切ですね。

思わずしていることは実は非常に適切な事なんですね

井桁プロとしては計画を気にしてしまうと思うんですけど、「生活するときに計画って必要かな?」と私も思います。どこかに枠は必要としても、そこに囚われ過ぎて大事なものが全然目に見えてないってことは、すごくよくあるんです。

そのときに「ちょっと待てよ」って立ち止まって、違う角度、違う層から見られないか考えてほしいと思っています。怒鳴ってしまったけど、もし時間を巻き戻して他の言い方をできるなら何て言うかな……とか。

別の視点から同じものを眺めるだけで、本当に全く別世界が見えてくる。これは理想論ではなくて、私自身も保育者として何度も経験してきました。

佐伯ものの見方が変わる瞬間って、すごくうれしいですよね。「ああそうなんだ」って、世界が本当にがらりと違う見え方を始める。そんなことが起こるんだということを、みなさんにはぜひ知ってもらえたらと思います。

「わからないけど、わかりたい」の思いを抱えて

井桁子どもは立体的に物ごとを捉えられていると思うんです。何とかしなくてはいけないのは、やっぱり大人の目線ですよね。

どうしたら佐伯先生のようなまなざしを持てるんでしょうか。向こう側に「何があるかわからない」と思いながらも見続けられる姿勢って、私は本当にすごいと思っていて。

「答えを決めきらない」というのは先生が1つ大事にされてることだと思いますけど、それだけじゃないですよね。すべてを保留にして“何も決めない”こととは違いますよね。

分かり方というか面白いなあ 憧れてしまいます

佐伯いや、私もまだ全然何もわかってないですよ(笑)。ただ1つ言うなら、「わかりたい」って思いをやはり持ち続けることでしょうか。

「わからない、何だろうな」という問いを大切に持ったまま、一旦はぐっと胸に秘めておく。すると、それが自然にふっとほどけて、いろんなことの関連が見えてくる瞬間があるんです。

このすばらしさを味わうと、世界がすごくおもしろくなりますね。そんなまなざしが増えれば、世の中はどんどん明るくなると思います。

井桁理屈のよくわからないものを蓄えていくことで、人としての幅や知識の裾野が広がって、やがて本当の“わかる”というところに行く。これは子どもの遊びも一緒ですよね。

ただ、「一見無駄に思えること」をおもしろがる保育をやるのって、勇気もいるんですよ。出来栄えや評価を気にする大人たちが待ちきれずに、目に見えて“わかる”ことを急がせてしまう。ここが多分、今の教育の一番大きな問題じゃないかと思います。

子どもを信じて見守ってほしいなと思うんですけどね、それも取って付けた理屈で「じゃあ待ちましょうか」と言うだけではダメで。見守るときには、そこに思いを馳せているかがやっぱり大事ですから。

佐伯思いを馳せたら、自然と見守っちゃいますよね。でも、見守ろうとすることが先にあるんじゃなくて、「何なんだろう?こうかな、ああかな……」と思いを巡らせていたら、余計な手を出せなくなるんです。

子どもは一見わからないことをいっぱいする、それを楽しむ気持ちを持つことで「結果的に見守る」状態になるのかなと思います。

余計な手を出せない 余計な手は出せませんよ

井桁人生って、誰かがいつも横にいて「これが正解だ」と示唆を与えてくれるならいいんですけど、実際は何が起きても自分で臨むしかないですよね。それができるよう応援していくことが、私たちの仕事なんじゃないかなって思うんです。

子どもが変化に対応できる人になれるよう、自分で“わかる”ことを尊重していく。ここが保育や教育のなかで意識されると、みんなすごく生きやすくなるだろうなと感じています。

佐伯私たちは「想定通りになることがいいことだ」と思い込まされてしまってます。でも本当は、“想定外”をもっと大切にしなきゃいけないんです。

その“想定外”を最も見せてくれるのって、子どもたちなんです。子どもの“わかる”の世界を一緒見ていくことで、「ああ、想定に縛られていたんだな」と反省させてもらう。それが子どもを見るということだ、私は思いますね。

佐伯先生と井桁先生

※ 90分の対談内容から、佐伯先生と井桁先生のメッセージを記事として再構成しました

講師:井桁 容子(いげた ようこ)
乳幼児教育研究家。非営利団体コドモノミカタ代表理事。2018年3月まで42年間、東京家政大学ナースリールームにおいて0〜3歳児の保育の実践と研究に従事。現在は講演などを通じて、日本の子どもがおかれる環境の質の底上げに尽力中。NHK教育「すくすく子育て」に出演。著書に「0・1・2歳児のココロを読みとく保育のまなざし」など多数。
講師:講師:佐伯 胖(さえき ゆたか)
認知心理学者。田園調布学園大学大学院教授、東京大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。慶應義塾大学工学部卒業後、ワシントン大学大学院を修了。認知科学の立場から子どもの学びを研究。著書に「「学び」の構造 」「幼児教育へのいざない」など、共著に「子どもを「人間としてみる」ということ」など多数。
企画・主催:大友 剛(おおとも たけし)
ミュージシャン&マジシャン&翻訳家。「音楽とマジックと絵本」で活動。NHK教育「すくすく子育て」に出演。東北被災地に音楽とマジックを届ける『Music&Magicキャラバン』設立。著書に「ねこのピート」「えがないえほん」「カラーモンスター 」など多数。YouTubeで発信中。

(構成・執筆/佐々木将史

<『冬の保育アカデミー』の続編となるセミナー『春の保育アカデミー』が、2021年5月に開催されます(Peatixにて受付中)。すべての講演で6月末まで見逃し配信に対応、団体申し込みの場合は臨時職員・保護者への無料招待つき。詳しくは下記サイトをご覧ください>

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