手ぶら登園保育コラム

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表せないものを表す“言葉の世界”の育み方——汐見稔幸 #保育アカデミー

表せないものを表す“言葉の世界”の育み方——汐見稔幸 #保育アカデミー

何か新しいことを知ったり、誰かに想いを伝えたり。人の営みの傍にある『言葉』は、子どもと大人が向き合うときにも欠かせない、大切な表現方法の一つです。

そんな言葉に対し、東京大学名誉教授の汐見稔幸先生は「世界を豊かにする可能性」と同時に、特に幼児教育における「わかったつもりにさせる危うさ」を指摘します。

「子どもの言葉は、単純に増えればいいというものではありません。現実との関係を丁寧に確かめていく、保育者の関わりがとても大切です」

過去にも「理解とは『支えどころ』を見つけること」「保育は命の“物語”を応援すること」など、私たちが何気なく使う言葉を丁寧に解説くださった汐見先生。今回も、子どもたちに育んでほしい“言葉の世界”とはどのようなものかを語っていただきました。

(この記事は、2021年5月『春の保育アカデミー』(主催:大友剛)のオンライン講義の内容を、メディアパートナーとしてベビージョブ編集部が再構成したものです)

子どもたちの「一挙手一投足」が表現になる

汐見保育では今、子どもたちの『個性』や『主体性』がとても大事だと言われています。今回のアカデミーのテーマ「表現」は、それらが最もわかりやすい形で出てくる行為です。

子どもの「表現」を通じて、また大人がそれを励ますことによって、一人ひとりの命の“物語”が育っていく。

なかでも『言葉』という表現には大きな可能性があります。一方で、子どもたちが身に付けるときに注意しないといけない部分もある。今日はそれをみなさんと一緒に考えてみたいと思っています。

『春の保育アカデミー』講師の汐見稔幸先生『春の保育アカデミー』講師の汐見稔幸先生

汐見最初に、保育や教育における「表現」について少し考えてみましょう。五領域の一つとして、みなさんも重要性は意識されていると思います。しかし、いざ定義を問われると、はっきり答えるのが難しい言葉ですよね。

私が表現という行為の意味を考えるとき、よく『生活綴方(せいかつつづりかた)』という教育のことを思い浮かべます。

これは戦時中、子どもたちの自由な学びが制限されていたなかで、一部の教師たちが行なった「感じたことを自分の言葉で書く」取り組みです。作文を通じて自分自身と向き合ったり、子ども同士が互いに深く理解し合ったりする体験を経て、一人ひとりの学びの礎をつくるような実践でした。

山形県山元村中学校の子どもたちの綴方をまとめた『山びこ学校』(岩波文庫山形県山元村中学校の教師、無着成恭さんが子どもたちの綴方をまとめた『山びこ学校』を出版。これにより、生活綴方は国内外で注目を集めるようになりました

汐見生活綴方に携わる教師たちは、子どもたちを見るときに言葉だけでなく、その一挙手一投足を「すべて表現と捉える」考え方をしていました。本来は形のない「気持ち」や「感情」を、人は本能的にいろんな形で表すんだと言ったんですね。

例えばイライラしている子どもは、そうすることによって命を安定させているんだと捉える。ならばイライラするのも、自分の命を輝かせるために必要なものだと考えることができます。

それがその子の今の表現なんだってね

汐見一方で、そういった無意識的に行われる表現(=表出)と、その先にある意識的な表現を区別する考え方もあります。一般的には後者の、意識性をもって「いい音を出したり」「きれいな色を塗ったり」していく行為が表現とされていますね。

ただ私は前者の、意識の手前にある「表出」こそが、命の営みの出発点になると考えています。例えば初めて見る虫がいたとして、おもしろいと思う子どももいれば、怖いと感じる子もいる。一人ひとり違う初発の対応に、その子の『個性』が一番わかりやすく表れると思うんです。

そこから今度、表した気持ちを洗練していくとき、子どもたちは命の物語の“主人公”となっていきます。つまり、世界という舞台に『主体性』をもって関わる。この過程で表現にさまざまなバリエーションが生まれていくのだと、私は捉えています。

受け止めてくれる“他者”の存在が言葉を生む

汐見では次に、今回のメインである『言葉』についても成り立ちを見てみましょう。

人類がいつどのように言葉を身につけていったか、実は未だ定説がありません。以前有力だったのは、集団での狩猟のなかで「獲物を区別したり連携を取ったりするときに言葉が必要になった」とする労働起源説です。

他方で、「人同士の深い結びつき」に言葉の起源があると唱えた人もいます。幼児教育にも大きな影響を与えた、フランスの哲学者ルソーです。ルソーは著書『言語起源論』のなかで、例えば人を好きになったとき、思いに形を与えて伝えるために言葉が生まれたとしています。

命の営みというものを共有してくれる

汐見どの考え方にしても、自分の持つ情報を相手にわかりやすく伝えるメディア(媒体)の一つとして言葉は位置付けられています。人間としての基本的な命の営みを「他者と共有する」、いちツールなんですね。

実際には、心で感じたものは表情や身振り、手振りなどで先に表現されています。それでも足りないから、私たちは言葉を使う。

これは「喜びや不安などを共感してもらいたい」という思い、そして「共感してくれる他者がいる」関係性がないと、人に言葉は生まれないということでもあります。そしてそれは、子どもの世界でもまったく同様だと私は考えているんですね。

自分はこの先生方に守られてるんだとか

汐見赤ちゃんから言葉が表れてきたときに、私たちはよく「やっと出てきたね」と簡単に済ませてしまっています。しかしそれは、自分の命の営みを傍で共感し、守ってくれる人がいるから表れてくるものなんです。

以前、養護学校(現在の特別支援学校)の先生方と研究をしていたときに、初めて言葉を口にした児童のエピソードを教えてもらったことがあります。その子はずっとしゃべれないと思われていたんですが、ある日雪が降っているのを見て、突然「ゆき!」と言ったそうです。

聞いてみるとそれまでに、子どものことをわかろうとする先生方の丁寧な関わりがあった。その子が雪を見て本当に感動したときに、その傍にいつも自分を受け止めてくれる大人がいたからこそ、言葉が生まれてきたのかなと思うんですね。

守られる経験が積み重なると、何かが起きたときの子どもの初発の感情や、その後出てくる表現が変わります。「不安」などのネガティブな感情にも丁寧に応じることで、子どもは落ち着いた姿を見せるようになる。乳幼児保育の大きな意味も、ここにあると私は考えています。

「わかったつもりになる」言葉の危うさ

汐見では、そんな人の営みに深く関わる言葉をいつ覚えるのがいいのか。早く身につければ優秀……といった単純な話ではありません。言葉の育ちには危険性が伴うことも、保育者はきちんと知っておく必要があります。

ある1歳児の子どもの例を挙げましょう。その子は、周りの子どもが二語文ほどしか話さない段階で3歳児並みにしっかり言葉を覚え、みんなに「すごいね」とほめられ続けたそうです。ところが今度、3歳になろうとする頃に親の話すらまったく聞こうとしない、とても気難しい子になってしまった。

相談を受けたとき、私は「言葉だけで広がる世界」をその子自身が処理しきれなくなったのではと感じました。自分が感じたものを形にし、受け止めてもらうといった本来の営みを経ず、頭の中の世界だけがどんどん膨らんでしまったことで、ものすごい混乱が起きたわけです。

「言葉はたくさん知っているけれど、実物は何も知らない」。ここに起因するトラブルは、日本の学校教育から海外の著名人まで実はたくさんの報告があります。

「この本に書いてあることは全て彼女が考えて書いたものです」ってイギリスの思想家J・S・ミルも、幼少期に受けた英才教育の影響で、青年期に大きな悩みを抱えた一人。『自由論』の冒頭には、そうした自分を豊かな言葉で救ってくれた妻への謝辞が記されています

汐見言葉は便利ですが、知ったことで「わかったつもりになってしまう」ツールでもあります。現実の世界には、言葉にならない豊かな世界がたくさんあるんです。

ウサギを例にすると、子どもたちにわかりやすく伝えるために「フワフワの毛なんだよ」「赤い目をしてかわいいんだよ」と教えたとします。けれど、本物はチクチクした毛や、黒い目をしたウサギもいる。その認識の差を、子どもは直接見たり触ったりすることで埋めていきます。

また、現実の世界の感じ方も一人ひとり異なります。実際にある園で子どもたちにウサギを抱かせたときは、「あったかい」「ひくひくしてる」など、こちらが思ってもいない言葉を口にしてくれました。それぞれに感じたことを、子どもはちゃんと言葉にしてみる力があるんですね。

かなりの子どもがね「あったか~い!」とかね

汐見言葉の世界を豊かにするには、言葉にならないものも含めていろんな実体験をする必要があります。

叩いてみたらおもしろい音がしたとか、変な臭いがすると思ったら生きものの死骸があったとか。そんな体験が氷山のように大きく積み重なったあと、先端にわずかに見えている部分を何とか言葉にしていくんですね。

私たちは子どもの言葉が育つとき、「数が増えているかどうか」をつい見てしまいがちです。もちろん言葉は情報処理のための優れたツールですが、それを多く身につければ優秀な子どもになるとは限らないことを、きちんと理解していただきたいと思います。

体験と思考の間で「確かめながら」育む

汐見とはいえ、私たちが使う言葉の多くは、子どもが自分で編み出すことのできないものです。子どもが体験をしたときに、「そういうときは◯◯って言うんだよ」などとモデルを示していくことは、大人の大事な役割になります。

先ほどの例で言えば、何かが死んでいて臭うなと感じたときは「ネズミが死んじゃったんだね」「放っておいたら、こうやって臭くなるんだよ」などと言葉で伝えてあげる。その事実と言葉から、子どもたちは「死んだ動物は臭くなる」といった論理を学んでいきます。

言葉で伝えることは、物ごとを一般化し自分も誰かに伝えていく、大切な力を育むことになるんです。

それは上手に言葉で伝えてあげなきゃいけないわけですよね

汐見言葉というものは、適切な論理体系で身につけていくことで、人が思考を深める大切なツールになっていきます。

これについては、バジル・バーンステインという有名な言語社会学者の研究があります。1950〜60年代のイギリスの、労働者階級と中産階級の言葉の違いと学力の関連を調べたものです。

調査によると、労働者階級で交わされる英語は単語ごとにブツンと区切られ、接続詞も単純なものばかりでした。ところが、中産階級の言葉は「逆接」も含めさまざまな接続詞が使われて、文章も論理的に成り立っていた。教科書で使われるのは後者の言葉なので、労働者階級はなかなか学力を高めることができなかったというんですね。

現代の日本では、そこまではっきりとした階級差はないと言われています。けれど、子どもたちが論理立った言葉を使っていくことの大切さは変わりません。保育のなかでも「こうだからこうなったんだね」などしっかりした言葉のモデルを大人が示すことは、子どもの論理的な思考を励ますうえで、とても重要だと考えられます。

保育で使う言葉は実際の事実に即しながら ~だからこうなんだよね。

汐見実体験と思考の世界、2つの境目で言葉を育くむのはとても難しいことです。先走って言葉をたくさん与えても、本当の意味でそれを身につけていくとは限らない。早期教育のほとんどがうまくいかない原因は、ここにあると私は感じています。

大切なのは、自分の体験から得た知識を一つずつ言語化していくことです。もちろん、絵本や図鑑でいろいろなことを学ぶのもとても大事ですが、そこには「じゃあ確かめにいこう」という実際の行為が伴う必要がある。

その関わりを丁寧にやることこそが、保育者の重要な役割だと私は考えています。

表せないものを伝える“比喩”の力

汐見ここまで言葉の危うさと可能性をお話してきましたが、最後にお伝えしておきたいことがもう一つあります。それは、言葉の限界です。

人が使える単語は、多くてもせいぜい5万語ぐらいとされます。それを結んで表現したとして、現実にあるものすべてを表すことはできません。図像でも立体でもない以上、実際にはコップ一つすらもありのままに伝えられないのが言葉なんですね。

これ多分10万語があろうが20万語があろうが表現できないんですよね。

汐見まして感情の世界は揺れ動いて形がない。どれだけ言葉で固定しようとしても、人の気持ちを正確に表すことは絶対にできません。

それでも、私たちは言葉を使って多くのことを他者に伝えています。実はここで私たちが頼っているのが“比喩”です。

つまり、言葉の世界を豊かにしていくには「これって◯◯みたいだね」という表現を使っていくしか、もう方法がないんですよ。特に子どもの世界には、少ない言葉(3歳で1000語程度)で話すがゆえの比喩表現がたくさんあります。

私は以前、先生方と子どもの姿を話していたときに、「ぼくはひとり。だけど、くつはふたりだね」という3歳児の言葉を教えてもらいました。一人でいて寂しかったのかもしれないし、靴を見て羨ましかったのかもしれないけれど、とにかく感性の豊かさに驚いたのを覚えています。

こういった比喩の想像力を、幼児期の子どもたちにはできるだけ楽しんでほしい。「◯◯みたいだね」という言葉を子どもたちにいっぱい使ってもらって、大人もそこからたくさんの表現を学んでほしいと思うんですね。

言葉と比喩っていうものがすごく大事で そういう切っ掛けを凄く増やして欲しいな

汐見言葉による表現を豊かにするためには、「他者の言葉を聞くこと」も大切です。ある詩人は「詩が書けなくなったら、他人の詩を読むんだ」と話していましたが、表現を出していくためには、外から表現を取り入れることも必要になる。

保育のなかでは「今◯◯ちゃんがおもしろいこと言ったね。みんなどう思う?」などと、人の言葉に大人が耳を傾ける姿勢を見せてほしいと思います。また、「今日は風の音を1日聞いていよう」「雲をずっと眺めてみよう」といった関わりを通して、一人ひとりの聞き方、ものの見方、匂いの嗅ぎ方などの違いに目を向けることも重要ですね。

そういった行為は一見受動的なように見えますが、子どもの能動性の表れでもある。子どもたちが全身で感じて、蓄えたものから言葉が生まれていくんです。

生まれたものを大事にし、そこに保育者が子どもの個性を感じ取ることができれば、表現の世界は確実に育っていくのだと私は考えています。

表せないものを伝える“比喩”の力

※ 90分の講演内容から、汐見先生のメッセージを記事として再構成しました

講師:汐見 稔幸(しおみ としゆき)
日本保育学会前会長。東京大学名誉教授、白梅学園大学名誉学長。専門は教育学、教育人間学、保育学、育児学。保育についての自由な経験交流と学びの場である『臨床育児・保育研究会』を主催。21世紀型の身の丈に合った生き方を探るエコビレッジ『ぐうたら村』を建設中。著書に「汐見稔幸 こども・保育・人間」など多数。
企画・主催:大友 剛(おおとも たけし)
ミュージシャン&マジシャン&翻訳家。「音楽とマジックと絵本」で活動。NHK教育「すくすく子育て」に出演。東北被災地に音楽とマジックを届ける『Music&Magicキャラバン』設立。著書に「ねこのピート」「えがないえほん」「カラーモンスター 」など多数。YouTubeで発信中。

(構成・執筆/佐々木将史

<『春の保育アカデミー』の続編となるセミナー『夏の保育・教育アカデミー』が、2021年8月に開催されます(Peatixにて受付中)。10名の講師による8講座、すべての講演で見逃し配信に対応。団体申し込みの場合は臨時職員・保護者への無料招待つき。詳しくは下記サイトをご覧ください>

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